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最高裁判所第三小法廷 平成3年(オ)399号 判決

上告人 中山とも江 外1名

被上告人 中山貞子

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

一  上告代理人○○らの上告理由第三点について

養子縁組は法定の届出によって効力を生ずるものであるから、養子とする意図で他人の子を嫡出子として出生届をした場合に、たとい実の親子と同様の生活の実体があったとしても、右出生届をもって養子縁組届とみなし有効に養子縁組が成立したものとすることができないことは、当裁判所の判例とするところである(昭和24年(オ)第97号同25年12月28日第二小法廷判決・民集4巻13号701頁、昭和49年(オ)第861号同50年4月8日第三小法廷判決・民集29巻4号401頁、昭和55年(オ)第661号同56年6月16日第三小法廷判決・民集35巻4号791頁)。これと同旨の原審の判断は正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

二  同第四点一について

1  原審の適法に確定した事実及び記録によってうかがわれる事実は、次のとおりである。

亡中山金次郎(大正4年12月3日生、昭和63年8月22日死亡)と上告人とも江(大正3年3月22日生)は昭和18年3月15日に婚姻の届出をした夫婦であり、金次郎は右同日、上告人裕一について昭和17年11月24日右夫婦間に出生した子として出生の届出をしたが、同上告人は、金次郎夫婦の実子とは認められない。しかし、金次郎夫婦は、長年にわたって上告人裕一を養育し、同上告人は昭和46年に婚姻した後も、金次郎夫婦と同居し、金次郎死亡後も上告人とも江と同居しているなど、金次郎夫婦と上告人裕一との間には実親子と同様の生活の実体があり、金次郎夫婦、上告人裕一ともその解消を望んでいない。

他方、被上告人(昭和11年2月24日生)は昭和35年2月5日に金次郎夫婦と養子縁組をしたものであるが、20年以上も前から上告人裕一が金次郎夫婦の実子でないことを知っていた。

本件訴訟は、昭和63年8月22日金次郎が死亡した後、上告人らと被上告人との間で、家業の製靴業の経営権をめぐる争いが生じ、遺産分割協議も進展せず、右分割協議の前提として上告人裕一の身分関係を明確にする必要があることから、被上告人が上告人らを相手に、金次郎と上告人裕一との間に父子関係が、上告人とも江と上告人裕一との間に母子関係が存在しないことの確認を求めて提起したものである。

2  身分関係存否確認訴訟は、身分法秩序の根幹を成す基本的親族関係の存否につき関係者間に紛争がある場合に対世的効力を有する判決をもって画一的確定を図り、ひいてはこれにより身分関係を公証する戸籍の記載の正確性を確保する機能をも有するものであるところ、虚偽の嫡出子出生届出により戸籍上存在する表見的親子関係の不存在確認を求める本件訴訟の有する右のような性質等に加えて、本件訴訟で金次郎夫婦と上告人裕一との間に親子関係が存在しないことを確認する旨の判決が確定した後、あらためて上告人らの間で養子縁組の届出をすることにより嫡出母子関係を創設するなどの方策を講ずることも可能であることにも鑑みれば、前記のような本件事実関係の下においては、論旨が主張するように、金次郎夫婦と上告人裕一との間に長年にわたり実親子と同様の生活の実体があり、当事者がその共同生活の解消を望んでいなかったことや、被上告人が、金次郎夫婦と上告人裕一との間の親子関係の不存在を熟知しておりながら、金次郎の死亡前にはその確認を求める訴訟を提起しなかったことなどを考慮しても、被上告人の本訴請求が権利の濫用に当たり許されないものということはできないというべきであり、これと同旨の原審の判断は正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

三  その余の上告理由について

所論の点に関する原審の認定判断及び措置は、原判決挙示の証拠関係及び記録に照らし、正当として是認することができ、その過程にも所論の違法は認められない。右判断は、所論引用の判例に抵触するものではなく、論旨は採用することができない。

よって、民訴法401条、95条、89条、93条に従い、裁判官可部恒雄の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判官可部恒雄の補足意見は次のとおりである。

一  所論に鑑み本件の事実関係について見るのに、原審の適法に確定した事実及び記録によって窺われる事実は、次のとおりである。

亡中山金次郎(大正4年12月3日生、昭和63年8月22日死亡)と上告人とも江(大正3年3月22日生)は昭和18年3月15日に婚姻の届出をした夫婦であり、金次郎は右同日、上告人裕一について昭和17年11月24日右夫婦間に出生した子として出生の届出をしたが、同上告人は、金次郎夫婦の実子とは認められない。しかし、金次郎夫婦は、長年にわたって上告人裕一を養育し、同上告人は昭和46年に婚姻した後も、金次郎夫婦と同居し、金次郎死亡後も上告人とも江と同居しているなど、金次郎夫婦と上告人裕一との間には実親子と同様の生活の実体があった。一方、被上告人(昭和11年2月24日生)は、昭和35年2月5日に金次郎夫婦と養子縁組をした。

二  ところで、本件訴訟は、昭和63年8月22日金次郎が死亡した後、上告人らと被上告人との間で、家業の製靴業の経営権をめぐる争いが生じ、遺産分割協議も進展せず、右分割協議の前提として上告人裕一の身分関係を明確にする必要があることから、被上告人が上告人らを相手に、金次郎と上告人裕一との間に父子関係が、上告人とも江と上告人裕一との間に母子関係が存在しないことの確認を求めて提起したものである。そして、本件の金次郎夫婦と上告人裕一との例に見られるように、長年月にわたり実親子として過した生活の実体がある場合においても、虚偽の出生届によって養親子関係が生ずるものでないことは、法廷意見の引用するとおり、当裁判所の累次の判例とするところであり、また、身分関係の存否をめぐる訴訟において、右の長期にわたる実親子としての生活の実体を重視すべきであるとの見地からその提訴行為自体を目して権利の濫用とすることにつき、一般に判例はすこぶる慎重であり(前掲昭和56年6月16日第三小法廷判決、同年(オ)第362号同年10月1日第一小法廷判決・民集35巻7号1113頁等参照)、原判決もまたその例に洩れないところである。

三  しかしながら、身分関係の存否をめぐる訴訟において、しばしばその提訴が権利濫用に当たるとして争われ、しかも多くの場合これが排斥を免れないものとされるのは、一面において、さきに見たように、数十年の長きにわたる実親子としての社会的に容認された生活の実体があるにもかかわらず、幼児本人の与り知らない出生届出が血縁の関係において真実に合致しないとの一事をもって、これが俄に覆されることを不条理とするまことに無理からぬ法感情が存在し、他面、右の既成事実を重視するあまり権利濫用の主張をたやすく是認すれば、血縁関係の正確な表示を所期すべき戸籍―身分法の基本原則に背馳する結果となるからにほかならない。本件のような虚偽の出生届出により外見上存在する実親子関係の不存在確認訴訟において、その提訴自体を権利濫用として抗争することが許されないとする理由が、右に述べた後者の要請に出るものであるとすれば、右の親子関係の不存在を原因とする相続財産をめぐる訴訟においてまで、この理が同じく妥当するものと解すべきいわれはなく、かかる財産上の争訟にあっては、むしろ前者の法感情を直視した上、長きにわたる実親子としての社会的に容認された生活の実体を根拠として、親子関係不存在の主張を権利濫用として排斥することを妨げる理由は存しないものといわなければならない。

四  一般に、相続財産をめぐる訴訟が身分関係の存否を前提問題としてなされ得るにもかかわらず、通常この身分関係の存否自体の確認請求が独立の訴えとして提起され、しかもこの訴訟において多くは権利濫用の主張が排斥を免れないものとされる結果、本来の目的である財産上の紛争についても当然に結論を同じくすべきものであるかの誤解を生じ、長きにわたる生活の実体が故なく無視ないし軽視される結果を招くおそれなしとしない。私はかつて、甲乙夫婦の間の嫡出子として届け出られた第三者の子yが甲の実子として事実上その遺産を相続した後に、甲乙の養女xとの間に紛争を生じ、xの側からする相続回復請求のため、甲y間の親子関係の不存在確認が求められた事案において、右の理を特に指摘して付言したことがある(最高裁平成2年(オ)第159号同3年4月23日第三小法廷判決における私の補足意見参照)。

五  本件においては、幸いにも上告人裕一の戸籍上の母である上告人とも江が健在である。したがって、本判決の言渡しにより上告人裕一との間の親子関係の不存在確認が確定すれば、上告人裕一は、亡金次郎の遺産につき大きな相続分を有する上告人とも江との間に、養子縁組を結ぶことができる。このことが本件紛争の解決に当たって、金次郎夫婦と上告人裕一との間に長年にわたって形成された社会生活上の既成事実が被上告人の提訴による親子関係の不存在確認により一挙に崩壊せしめられるという不合理な結果を減殺する上で、大きく資するところがあるべきことは、法廷意見も指摘するとおりである。

六  他人の子が嫡出子として届け出られた場合に、「かような届出によって実親子関係が生じないことはいうまでもないが、養親子関係も生じないものだろうか」とする疑問がかねて提起され、養親子関係の成立を肯定すべきものとする有力説が存することは周知のところである(我妻榮・親族法、同「無効な縁組届出の追認と転換」法協71巻1号)。しかるに判例がこれを採らず、また学説の多くもこれに追随しないのは、一つには、甲による嫡出子出生届という単独行為により、甲乙夫婦と幼児丙という相対立する縁組当事者双方に関する届出行為への転換がいかにして可能であるか、また双方の意思確認がいかにして可能であるか(鍛冶良堅「無効な身分行為の転換・追認」法律行為論の現代的課題)という容易に克服し難い法理上の難点が存することにもよるものと思われる。

しかし、戸籍上の両親が死亡した後に親子関係不存在確認の判決が確定した場合は、戸籍上の父母と同居し、実子として養育され、社会的にその存在を肯定された“藁の上からの養子”は、罪なくしてその身分を一挙に剥奪され、その相続分は零となる。かかる不合理が法の当然に予定するところであるとは到底考え難い。

名は親子関係不存在確認の請求であっても、その実質は財産上の紛争にほかならないのが、この種訴訟の大部分であるといえよう。かかる事案において、窮極的には、親子関係不存在の確認請求自体が権利濫用として排斥される場合があり得るものといわなければならない。私は、かかる留保を置いた上で、確定判例を踏襲する法廷意見に同調することを、この際、特に付言しておくこととしたい。

(裁判長裁判官 可部恒雄 裁判官 園部逸夫 大野正男 千種秀夫 尾崎行信)

上告代理人○○らの上告理由

原判決には、以下のとおり、四点にわたって、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違背がある。

第一点母子関係不存在確認請求についての確認の利益の不存在

親子関係の存否について争いがある場合において、その確定は、父母と子との間において合一にする必要はなく、それぞれ父子関係、母子関係ごとに別個の法律関係としてその対象とするのが相当であり、(最高裁判所昭和56年6月16日判決・民集35巻4号791頁参照)、したがってそれぞれについて独自にその存否の確認の訴えの利益の有無を判断すべきであるところ、原判決は、被上告人の本件請求中、上告人両名間の母子関係不存在の確認請求について確認の訴えの利益を認めているが、右判断は、以下に述べるとおり、大審院及び東京高等裁判所の判例に違背するとともに、訴えの利益に関する民事訴訟法の解釈を誤ったものであって、原判決は破棄を免れない。

一 判例違背

原判決の右の判断は、以下の判例に明らかに違背する。

1 大審院昭和13年5月23日判決・昭和12年(オ)第2426号(法律新聞4289号9頁)

(右判例の要旨)

第三者が他人間に親子関係の存在しないことの確認を求めるには、その他人間に親子関係の存在しないことを確定することによって、第三者が直ちに特定の権利を有することが明瞭となるか又は直ちに特定の義務を免れるに至るというような直接の利害関係を有することを要し、単にその他人との間に親族関係があり、他の事実の生起をまって相続人たる地位を取得するに至るべき希望を有することだけでは、直接の利害関係を有するものとはいえず、本訴提起の確定利益があるとはいえない。

2 大審院昭和13年7月26日判決・昭和12年(オ)第1822号(法律新聞4323号10頁)

(右判例の要旨)

他人間の身分関係の不存在の確認は、その不存在によって自己の権利関係に直接の利害関係を及ぼす場合でなければ確認の利益がない。

3 東京高等裁判所昭和63年8月31日判決・昭和63年(ネ)第1473号(判例タイムズ694号161頁)

(右判例の要旨)

(1) 親子関係の不存在が確定しても、これにより訴訟当事者間の身分関係に何らの影響を及ぼすものでないときは、独立の訴えをもって当該親子関係の存否について確認を求める法律上の利益がない。

(2) 遺産相続に関し親子関係の不存在を確定する必要がある場合は、相続による財産上の権利義務に関する限りで親子関係の不存在を主張すれば足り、独立の訴えを求める利益はない。

右判決は、既に相続が開始し、親子関係の不存在が確認されれば、控訴人(一審原告)の現に受ける相続財産が異なってくる事案であったにもかかわらず独立の訴えの利益を否定した点で重要である。また、右判決は、第三者の提起する養子縁組無効確認の訴えについて「当該養子縁組が無効であることにより自己の身分関係に関する地位に直接影響を受けることのないものは右訴えにつき法律上の利益を有しない」とする最(三小)判昭和63年3月1日(民集42巻3号157頁、判例時報1273号59頁他)と軌を一にするものである。

二 法解釈の誤り

1 一記載の諸判例から明らかなとおり、親子関係不存在確認の訴えは、当該親子以外の第三者が確認を求める場合は、その第三者が単に親族であるというだけで確認の利益が認められるものではなく、当該親子関係の存否が確認されることによって、その第三者が直接に特定の権利を得または特定の義務を免れるに至るというような直接の利害関係をもつ場合あるいは自己の身分関係に関する地位に直接影響を受ける場合でなければ確認の利益が認められないものである。

なぜなら、親子関係不存在確認訴訟は人事訴訟であり、その判決には人事訴訟手続法18条1項の準用によって対世的効力が認められ、広く一般第三者に判決効が及ぼされるものであるから、たとえ親族であっても第三者が濫りにこれを提起し得るとすべきものではなく、当該親子以外の第三者には、単に親族であるからといって確認の利益(原告適格)が認められるべきものではないのであって、右のような制限が必要となるのは当然である。そしてまた、本件のように、過去50年近くにわたって社会生活上親子として取り扱われてきた者に対して第三者が親子関係不存在確認訴訟を提起する場合は、判決によって永年にわたって築かれてきた社会的事実を一挙に覆すことになるものであり、また、当該親子に与える精神的打撃には莫大なものがあるのであるから、確認の利益(原告適格)についての右の制限は、特に厳格に解されなければならない。

2 そこで、本件において、被上告人が上告人両名の間の母子関係の不存在が確認されることによってどのような地位に立つのかをみると、それは、単に、かりに右母子関係の不存在が確認され上告人中山裕一(以下「裕一」という)が同中山とも江(以下「とも江」という)の子ではないということになれば将来とも江が死亡した場合に同人の遺産についての被上告人の相続分が異なってくるというだけのことであり、それ以上のものは何もない。被上告人が有しているのは、このようないつ到来するかも不確定な将来における単なる期待のみであり、したがって、前記一・1及び2の二つの大審院判例の基準に照らせば、被上告人は、右母子関係の不存在の確認によって何ら直ちに特定の権利を得または義務を免れる関係にあるとはいえず、到底「直接の利害関係」を有するものとはいえない。

3 また、前記一・3の東京高裁判例の基準に照らしても、被上告人には確認の利益を認めることはできない。前記のように、右高裁判決は、既に親子の一方が死亡し相続が開始している事案について確認の利益を認めなかったものであり、この基準によれば、本件では訴外亡中山金次郎(以下「金次郎」という)と裕一との間の父子関係不存在確認請求についても被上告人には確認の利益が認められないのであって、ましてや将来相続が起こった場合の相続分という単なる期待のみにしか根拠のない本件母子関係不存在確認請求について確認の利益が認められる訳はない。

第三者の提起する身分関係確認訴訟における訴えの利益について、右高裁判決及び前記最判昭和63年3月1日によれば「当該身分関係の確認によって自己の身分関係に関する地位に(直接)影響を受けること」が要件とされるが、そもそも単に遺産相続に関し親子関係を確定する必要があるというだけで、右の要件は満たされるものではない。この点については、右高裁判決が「そのような(遺産相続に関し母子関係の不存在を確定する必要があるような)場合においては、相続による財産上の権利義務に関する限りで母子関係の不存在を主張すれば足りる」と判示するところである。当該親子関係の不存在の確認により自己の財産上の権利義務に影響を受けるにすぎない者は、その権利義務に関する限りでの個別的、相対的解決に利害関係を有するものとして、右権利義務に関する限りで親子関係の不存在を主張すれば足り、それを超えて他人間の身分関係の存否を対世的に確認することに利害関係を有するものではないからである。

本件の母子関係不存在確認請求についていえば、遺産相続すら未だ起こってはいない。かりに相続分が異なることが前記判例の示す要件の「身分関係に関する地位」にあたるとしても、母子関係の不存在確認によって「直接の」影響を受けるものとは到底いうことはできないのであり、確認の利益がないことは明白である。

4 前記のように、本件請求は、上告人らの50年近くにわたる社会的、個人的な生活事実を一挙に覆そうとするものであり、また上告人らに多大の精神的苦痛を与えるものである。このような重大な請求について、第三者たる被上告人に確認の利益がないのにそれを認めた原判決の違法は重大であり、破棄を免れないものである。

第二点父子関係不存在確認請求についての確認の利益の不存在

原判決は、被上告人の本件請求中、金次郎と裕一との間の父子関係不存在の確認請求について確認の訴えの利益を認めているが、右判断も訴えの利益に関する民事訴訟法の解釈を誤ったものであって、この点からも原判決は破棄を免れない。

一 前記のように、現在の判例の基準にしたがえば、第三者の提起する身分関係確認訴訟における訴えの利益については、「当該身分関係の確認によって自己の身分関係に関する地位に(直接)影響を受けること」が要件とされるべきである。そして、右要件の判断にあたっては、当該親子関係の不存在の確認により自己の財産上の権利義務に影響を受けるにすぎない者は、右権利義務に関する限りで親子関係の不存在を主張すれば足りるものであるから、前記東京高裁判例も説示するように、単に遺産相続に関し親子関係を確定する必要があるというだけで、それを満たすものと解すべきではない。

二 本件において、被上告人には、金次郎の遺産相続の関係以外では、金次郎・裕一間の父子関係を確定する必要は全く存在しない。したがって、被上告人は、父子関係の確定を求めるならば、判決が対世的効力を有する独立の父子関係不存在確認訴訟の提起によるべきではなく、遺産分割の調停ないし審判において前提問題としてのみ主張するべきである。この点に関し、上告人らは、第一審答弁書中において、本件を東京家庭裁判所の家事調停に付すよう申し立てている。しかるに、原審及び第一審判決は、訴えの利益についての判断を誤って、被上告人に遺産相続関係以外で本件父子関係の確認を求める必要があるか否かについて何ら特段の審理をすることなく、被上告人の本件父子関係不存在確認請求についての確認の利益を認めているのであり、破棄を免れないものであることは明らかである。

第三点いわゆるわらの上からの養子縁組のための嫡出子出生届の養子縁組届への転換について

原判決は、上告人中山裕一を実子とする本件嫡出子出生届の効力について、「本件出生届を養子縁組届とみなし、有効に養子縁組が成立したものとすることはできない」とした第一審判決をそのまま維持し、右嫡出子出生届の養子縁組届への転換を認めないが、右判断には養子縁組の成立に関する民法の規定の解釈、適用の誤りがあり、この違法が原判決に影響を及ぼすことは明らかである。

一 原判決は、養子縁組が要式行為であるとの一事をもって、本件出生届の養子縁組届への転換を否定する。しかし、一方において、本件のようないわゆる「わらの上からの養子」とするための嫡出子出生届がなされた場合について右の転換を否定することは、親子関係を否定される子の保護の観点からみて極めて重大な問題があるのであり、また、他方において、養子縁組が要式行為とされていることの理由及び要式性を緩和した場合に発生すると考えられる問題の程度を検討し、両者を比較考量した場合、本件において、養子縁組の要式行為性を厳格に貫いて金次郎及びとも江と裕一との間の各親子関係を否定することには、十分に合理的な理由はないというべきである。

二 わらの上からの養子における子の保護について

1 本件のようないわゆる「わらの上からの養子」の場合に、嫡出子出生届に何らの効力を認めず、親子関係をまったく否定してしまうことには、親子関係を否定される子の保護の上で、極めて重大な問題がある。本件において、裕一は、昭和17年に嫡出子として出生届が出されて以来、49年の長きにわたって戸籍上も社会生活上も金次郎・とも江夫婦の子として扱われてきたのであり、また、その間、裕一は、金次郎・とも江夫婦を真実の親と信じて生活してきたのである。49年といえば、一人の人間の人生の大半といえる期間である。また、言うまでもなく、親子関係は、社会生活上も個人の精神生活上も、最も基本的な重要な人間関係である。この間に、金次郎・とも江夫婦との間の親子関係を前提として、裕一の人格・生活が築き上げられてきているのであり、これを無視して、現在になって、突如として金次郎・とも江と裕一との間の親子関係を否定することは、裕一のこれまでの半生を否定するに等しく、同人の基本的人権を侵害する行為であるとも言い得るものである。これによって裕一の受ける侵害は、単に遺産相続関係での財産的なもののみではなく、精神的・人格的なものである。むしろ、精神的・人格的なものであるからこそ、それはより重要視されなければならないものである。

2 しかも、裕一の戸籍への届出が、養子ではなく実子の形でなされたことについては、裕一には、なんら責められるべきところがない。右の実体に合わない届出は、裕一の意思によるものではないからである。このような、なんら責めらるべきところのない者に対して、前記のような莫大な不利益を課すことが、正義であり法の精神であると言えるであろうか。

さらに言えば、本件出生届をした金次郎、あるいはとも江も責められるべきではないのである。そもそも、我が国には生まれて間もない他人の子を貰い受けて自分たち夫婦の実子として届け出る慣習が古くからあり、判例も民法施行前に行われたこのような届出について養子縁組成立の効果を認めたことがある(大判大正8年2月8日民録25輯189頁)。民法(旧規定)は、養子縁組につき届出主義をとったが、右の慣習は全廃された訳ではなく、終戦前までは前記のような届出が相当な数で行われていたのである。本件出生届がなされた昭和17年の時点においても右のような状況だったのであり、特に法律の専門家でもなかった金次郎・とも江が、裕一について(養子縁組届ではなく)嫡出子出生届をしたとしても、これを一概に違法な届出であるといって非難することは相当ではないのである。

三 養子縁組の要式行為性について

1 養子縁組が届出によって成立する要式行為とされている理由は、縁組の意思表示がなされたのを確認すること、縁組の成立を外部に公示すること及び実質的要件を具えない縁組の成立を防ぐことの3点にあるとされる。右の3点のうち、初めの2点については、わらの上からの養子について嫡出子出生届がなされた場合でも目的は達成されており、養子縁組届への転換を認めるにあたっての障害となるものではない。なぜなら、まず、第1の目的についてみると、養子縁組の意思とは縁組届出の意思ではなく「嫡出親子関係を設定する意思」であるから、嫡出子出生届の中にも十分これが含まれていると見ることができ、縁組の意思表示の確認は可能である。また、第2の目的についてみると、右のような出生届に基づいてなされた戸籍の記載であっても、養子と実子との違いはあれ、親子関係成立の公示はなされている。民法においては、養親子関係と実親子関係とで法律的な効果にはほとんど差異がないのであるから(僅かに離縁の有無程度である)、嫡出子としての出生届がなされその旨の記載が戸籍になされた場合であっても第三者に対する公示の目的は果たされているからである。

2 (1) 第3の実質的要件の審査の目的については、特に未成年養子についての無許可縁組(民法第798条)を防止するという点が強調され、この点が判例・学説上わらの上からの養子についてなされた嫡出子出生届の養子縁組届への転換を認めるにあたっての最大の障害であるとされている。しかしながら、未成年養子の家庭裁判所の許可制度の運用の状況をみると、現状では単に養子の意思に反しないかをチェックする程度の形式的なもので、積極的に機能してはいないのであり、まして、昭和62年の民法改正により特別養子制度(民法第817条の2以下)が認められてからは、いわゆる他人養子の多くは特別養子へ移行したものとみられるのであって、この制度の存在意義は、ますます薄くなっているのである。右の点が、本件のように子(裕一)の人権に重大な影響を与える結果をもたらすような事案で、その結果を当事者及び第三者に納得させるだけの十分な合理性・説得力のある理由には到底なり得ない。わらの上からの養子について嫡出子としての出生届がなされた場合、確かに事前の審査としての未成年者養子無許可縁組のチェックは行われないことになる。しかし、その場合でも、無許可縁組は取り消し得べき縁組(民法第807条)として取り消されるのであり、事後的には是正されるのである。

(2) また、夫婦共同縁組の規定との関係でも同様のことがいえるのである。わらの上からの養子の場合、養子縁組届ではなく嫡出子出生届がなされるので、夫婦の一方のみによる届出であるから、他の一方の縁組の意思が確認されないことになるという批判がある。しかし、家制度を廃止した現行民法の規定の下においては、旧法以来の夫婦共同縁組を強制する規定には合理性がないとの批判が戦後の民法改正以来一貫してあり、ようやく昭和62年の民法改正において、夫婦共同縁組をあらゆる場合に強制する制度は廃され、原則として単独縁組が可能となり、ただ、他の配偶者の同意を得ればよいものとされたのである(民法第796条)。本件のような、わらの上からの養子が問題となる場合は、届出時において夫婦の他の一方の同意がないという例はほとんどなく、また、届出後何十年もの間父母双方との間で親子としての共同生活が継続されているのであるから、夫婦の他の一方の同意をことさら問題にする必要性はないといえる。したがって、本件のような子の保護の必要性が大きい事案で、夫婦共同縁組の規定を理由に養子縁組届への転換を否定することには、もはや、十分な説得力はないというべきである。

3 何よりも重要なのは、本件においては、親子関係を否定されることによって前記のような不利益を受けることになる子(裕一)の保護、救済が考えられなければならないことである。民法が養子縁組の成立について届出主義をとっていることは事実であるが、前記のような届出主義の根拠を考慮したとき、本件のような事案で、養子縁組の要式行為性を原審及び第一審判決のように単純に厳格に解釈して子(裕一)に対する保護、救済を一切否定することに一体どれほどの合理性があるのであろうか。このような解釈は、国民の権利の保護という法の第1の目的を看過した、徒らに硬直な法解釈であるとの批判を免れないものである。また、このような解釈は、嫡出子出生届に認知の効力を認める判例(大判大正15年10月11日民集5巻703頁、大判昭和11年4月14日民集15巻769頁等)及び表見代諾養子縁組について追認を許す判例(最判昭和27年10月3日民集6巻9号753頁)とも合致しないのである。

四 養子縁組届への転換を認める場合に生ずるとされる問題点について

1 養子縁組の成立時期

わらの上からの養子についてなされた嫡出子出生届の養子縁組届への転換を認めた場合、養子縁組成立の時期が不明確になり、身分関係の画一的処理の要請に反するという批判がある。たしかに、右の転換が認められるのは、当事者の縁組意思の他に真に親子としての生活事実が具わった場合に限られるべきであるから、転換を認めるか否かの判断にあたっては、届出後の親子としての生活事実の継続の有無を考慮しなければならない。しかし、右親子的生活事実の継続は、縁組の成否を判断する要素ではあるが、その事実がある程度継続した時点で養子縁組が成立するとされるものではなく、縁組意思に加えてその事実の継続があった場合に出生届出時に遡って養子縁組届出への転換の効力が認められるものである。したがって、転換が認められる場合は、縁組成立の時期は出生届出時とされるのであり、成立時期が不安定・不明確になるという批判はあたらないのである。

また、右のような解釈をとっても、届出後の事実を縁組の成否の判断の要素とすること自体が身分関係の画一的処理の要請に反するという批判もある。しかし、わらの上からの養子が問題となるのは、本件のように、何十年もの間本人(子)も周囲の者も親であり子であるとして生活してきた者(子)を保護すべきかどうかという局面においてなのであり、そのような事後的に個々の者を救済すべきか否かの判断をするにあたっては、届出後の事実を考慮に入れるのは許されることである。このような場合にまで、「身分関係の画一的処理の要請」の名の下に前記のような硬直とも言える法解釈をとって、子に対する保護を一切否定することには、十分な必要性・合理性が存するとは考えることができない。

2 その他の問題点

その他、養子縁組届への転換を認める解釈に対しては、養子からの離縁の自由を事実上奪うことになる、近親婚を戸籍上防止する方法がなくなる等の批判がなされているが、これらに対しても、1において述べたところと同様のことが言えるのである。本件において問題となっているのは、ほぼ半世紀もの長期間にわたって親子であるとされてきた事実を一挙に否定されることになる子(裕一)を保護するか否かである。本件において、裕一は、たとえ自分が養子であると知っていたとしても、金次郎・とも江と離縁することなど考えもしなかったし、近親婚などは、もちろんなされていない。問題なのは、一般的に嫡出子出生届の養子縁組届への転換を認めるかどうかということではなく、本件のようにとくに子の保護の必要性が大きい限定された事案において、事後的な救済を図るべきか否かということなのである。一般的に転換を認めた場合に生じ得る前記のような難点を理由に子の保護を否定することは、本件のような事案においては、正当な判断の筋道であるとは言い難いものである。

五 昭和62年民法改正との関連について

1 昭和62年に民法の養子に関する規定は大改正を受けたが、この改正は、当然に、わらの上からの養子についてのこれまでの取扱いについても見直しを迫るものである。すなわち、右改正は、前記の諸点において、養子縁組届への転換を認めない説の論拠を崩すものである他、養子に関する法制の基本的な考え方について、以下のような根本的な変革を加えたのである。

2 右改正によって、新たに特別養子の制度が認められたが、この制度によれば、特別養子と実方との親族関係は特別養子縁組によって終了するものとされ(民法第817条の9)、以後は養親及び養方の親族との関係のみが残るものとされる。このように、特別養子の制度においては、養子と血縁関係のある者との親族関係は断絶し、全く血縁関係のない養親及び養方との関係のみが、法的に親族関係として認められることになるのである。すなわち、この改正によって、親子関係の根本となるものは血縁ではなく親子としての生活事実、親子間の愛情であること(いわゆる「生みの親より育ての親」)が、法的にも是認されたものと解されるのである。この親子関係についての基本的な考え方によれば、わらの上からの養子の場合に、永年にわたり親子としての生活事実が積み重ねられ、親子としての愛情で結ばれてきた、わらの上からの養親子の関係に対して、法的に十分な保護を与えられなければならないことになるのは、当然の結論である。特別養子制度の創設は、それまでの養子制度に対して、子の福祉を第一に考える養子制度が必要であるということから行われたものである。わらの上からの養子がなされた場合も、子について嫡出子出生届を行った親は、同様に、将来における子の福祉について諸々の点を考え抜いた末に、そのような届出を行っているのである。

以上の点を考えれば、現行の養子法制からみて、わらの上からの養子についてのこれまでの取扱いは、変更されてしかるべきものである。

六 以上、本件における子(裕一)の保護の必要性の程度と、本件嫡出子出生届の養子縁組届への転換を否定する必要性の程度とを比較考量した場合、前者の方が大であることは明らかである。にもかかわらず、原審及び第一審判決は、養子縁組の要式行為性といういわば形式の不備のみを理由に、約半世紀にも及ぶ公簿上の表示と社会的事実の積み重ねとを一挙に否定して、子(裕一)に対する一切の保護を拒絶するものであり、破棄を免れないことは明らかである。

第四点権利濫用の判断における法解釈・適用の誤り及び審理不尽

原判決は、上告人らの権利濫用の主張を排斥しているが、この点には以下のとおり民法1条3項の解釈・適用の誤り及び審理不尽の違法があり、この違法が判決に影響を及ぼすことは明らかである。

一 法解釈・適用の誤り

1 かりに、本件嫡出子出生届の養子縁組届への転換が認められないものとしても、前記の本件における子(裕一)の保護の必要性を考えれば、第三者が本件親子関係の不存在を主張することは濫りに許されるべきでなく、さらに、以下に述べる点を考慮すれば、被上告人の本件請求は、当然に権利の濫用として棄却されるべきものである。

2 本件においては、昭和17年に裕一を子とする届出がなされ、以後50年近くの永きにわたって親子としての平和な共同生活が継続されてきたのであり、親である金次郎・とも江も、子である裕一も右の親子としての共同生活を解消する意思は全くなかったのである。このような場合に、当該親子以外の第三者は、右の共同生活継続の事実を尊重しなければならず、濫りにこれに容喙してはならないのは当然である。本件のように、子としての出生届があり、その後の親子としての共同生活の継続が相当の長期にわたって、しかも当事者が親子関係の維持を望んでいる事案では、第三者が親子関係を覆すことはできないのが原則であると考えるべきである。このような事案で第三者が血縁がなかったとの一事をもって当該親子関係を覆滅させることは、反社会性を帯びた行為であると言えるのであり、権利の濫用である。

3 まして、本件においては、被上告人は、20年前から裕一が金次郎・とも江の間の子ではないことを知っていたにもかかわらず、親子関係を容認してきたのであり、昭和63年8月の金次郎死亡の後、翌平成元年になって初めて本件親子関係の不存在の主張を始めたのである。そして、その目的は、金次郎の経営していた個人事業(コーチュー製靴)の経営権を我がものにすることなのであって、それ以外のものはないのである。

コーチュー製靴は、金次郎死亡後は、相続人間で裕一が事業を引き継ぐ旨の合意がなされ、税務署等には裕一を新事業主とする旨の届出をし、銀行口座は裕一の個人名義の口座を用いて、裕一を事業主として平穏に経営されていたのであるが、被上告人は、これを強引に我がものにすることを企て、まず、平成元年9月に本訴を提起し、さらに、翌同2年2月には、実力をもってコーチュー製靴の事務所及び工場を占拠するという法を全く無視した暴挙に出て、事業の乗っ取りを図ったのである(右被上告人の不法占拠に対して、裕一は東京地方裁判所に占有回収訴訟を提起し(同庁平成2年(フ)第×××号事件)、現在同庁において審理中である)。本訴は、被上告人の右不法な事業乗っ取り行為の一環なのである。

4 さらに、本件における裕一と被上告人の立場を比較してみれば、被上告人の本件親子関係不存在確認請求を許容することが不当なものであることはより一層明らかである。すなわち、まず、被上告人は、金次郎及びとも江の養子なのであり、被上告人と金次郎及びとも江との間に血縁関係はない。この点においては、(かりに裕一が金次郎の実子ではないとして)裕一と被上告人との間には何らの相違がないのである。両者とも同じく貰い子でありながら、一方は実子として届け出られ、他方は養子として届け出られたという違いだけである。さらに、むしろ、届出をした金次郎(及びとも江)の意思としては、養子として届け出た被上告人よりも、実子として届け出た裕一との方により強い結びつきを求めていたと考えるのが常識である。養子ならば離縁が可能であるが、実子の場合はそれが不可能だからである。したがって、このような場合に、養子として届け出られた者から実子として届け出られた者に対して親子関係の不存在を主張し得るとするのは、両者間の均衡を欠いた取り扱いであるばかりか、右の金次郎(及びとも江)の意思を考えればより強く保護されてしかるべき関係を保護しないという背理をきたすことになるのであり、それはまた、世間の常識的な感覚からもかけ離れた結論なのである。

5 右に述べたところからすれば、被上告人は、到底金次郎・とも江と裕一の間の親子関係に容喙し得る地位にはないのであり、被上告人の本件請求が権利の濫用であることは明らかである。

二 審理不尽

1 ある行為が権利の濫用となるか否かを判断するにあたっては、主観的にはその行為がいかなる目的でなされたか、客観的にはその行為によって相手方が受ける損害と行為者が得る利益との比較が考慮されなければならない。本件においては、まず客観面についてみれば、上告人らは、本訴によって、単に裕一が金次郎の遺産相続権を認められなくなるということのみならず、前記のような量り知れない精神的・人格的侵害を受けるものであるのに対し、被上告人は、金次郎の遺産相続分がある程度増加するというだけのことである。次に主観面についてみれば、被上告人の本訴提起の目的は、前記のように金次郎が経営していた個人事業の不当な乗っ取りにあり、法の保護に値しないものであることは明白である。

2 しかるに、原審は、上告人らの右権利濫用の主張に対して、十分な審理を尽くした上で原判決を下してはいない。原審においては、合計3回の口頭弁論期日しか開かれていないが、上告人らは、第2回口頭弁論期日において、右権利濫用の主張なかんずく被上告人の本訴提起の目的がコーチュー製靴の乗っ取りにあることを立証するために、裕一本人及び裕一の妻であり主として経理面を担当して裕一と共にコーチュー製靴の経営にあたっていた訴外中山知子の尋問を申請したが、裕一も訴外中山知子も第一審において取調を受けていないにもかかわらず、原審はいずれもこれを却下した。のみならず、原審は、右事業の乗っ取りの事実等を立証するために上告人らが第2回口頭弁論期日前に申し出た書証(乙第1号証ないし第3号証)さえ、訴訟指揮により提出を留保させ、取り調べることをしなかった。

原審においては右のような審理しかなされていないのにもかかわらず、原審は原判決中において、上告人らの権利濫用の主張に対して、単純に弁論の全趣旨から被上告人が本訴を提起するに至った経過を認定した上で(原判決は右弁論の全趣旨と並べて「当審の控訴人とも江本人及び被控訴人の各尋問の結果」を掲げるが、右両尋問結果中にはいずれにも被上告人が本訴提起に至る経過は表れていない)、被上告人の本訴提起の目的を「本件全証拠によるも」自己の利を図るためのものではないと認めているのである。前記のように権利濫用の成否の判断にあたっては行為者の目的が重要な判断要素になるのであり、この点に関する右のような原審の審理には審理不尽の違法があることは明らかであって、原判決は破棄を免れないものである。

以上

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